愛するという単独行為

今日は「愛」について、少し違う角度から考えてみたいと思います。

私の中で、愛はとてもシンプルで、少し残酷なものです。
それは――愛は常に一方的なものだ、という考え方です。

「愛し合うこと」が前提にあるように思われがちですが、
私は、愛はそもそも双方が同時に成立させる必要はないと思っています。

人が誰かを愛するとき、その気持ちや行動はすべて、自分自身の価値観から生まれます。
何が愛情表現なのか、どう伝えたいのか、どこに思いやりを感じるのか。
それは、完全にその人の内側の基準です。

たとえば、花を贈ること。
それが自分にとっては「愛している」という精一杯の表現だったとしても、
相手がそれを愛として受け取るかどうかは、相手次第です。
場合によっては、重たい、迷惑、気を遣うだけ、と思われることもあるでしょう。

逆も同じです。
相手はまったく愛のつもりなどなく、
ただ習慣でシーツを替えただけ、
手が空いたからお茶を入れただけ、
そんな行為を、こちらが勝手に「愛だ」と感じ取ることもあります。

つまり、
与える愛も、受け取る愛も、どちらも単独行動なのです。

言い換えると、常に個人の内側で起きている出来事なのです。

そう考えると、二人の間にある「愛」は、
実は客観的に確認できるものではありません。


私たちは、お互いの行動や言葉を見て、
「きっと愛し合っている」と感じているだけ。

いわゆる「相思相愛」という状態も、
実体としてそこにあるというより、
愛の解釈がうまく重なって見えている状態に近いのだと思います。

でも、私はそれを否定したいわけではありません。
錯覚だとしても、意味のある錯覚は確かに存在します。
人間関係は、そもそもそういう不確かなものの上に成り立っています。

問題になるのは、
その錯覚が永遠に、何もしなくても続くと信じてしまうことです。

自分が投げている愛は、今も相手にとって愛として受け取られているのか。
自分が「愛されている」と感じている相手の行動は、
本当に妥当な受け取り方なのか。

もしかしたら、
自分の愛は相手にとって攻撃や押しつけになっているかもしれない。
もしかしたら、
自分は相手の何気ない行動に、勝手な意味づけをしているだけかもしれない。

恋愛関係や夫婦関係を続けるうえで、
一番大切なのは「愛し続ける努力」ではないかと、私は思っています。

それよりも大事なのは、
自分の愛の投げ方と、愛の受け取り方を点検し続けること

ここでいう「点検」は、相手を疑うことではありません。
自分の解釈、自分の期待、自分の思い込みを疑うことです。

そして必要があれば、話し合い、すり合わせ、行動を変える。
この作業を、お互いにやめてしまった関係は、
ほんの少し当てはまる「愛らしきもの」だけにしがみついて、
不満を溜め込み、衝突を繰り返すようになります。

それで関係が壊れるのは、ある意味とても自然なことです。

逆に、
疑い、すり合わせ、変化し、また行動する。
この循環を続けている関係は、形を変えながらも長く続いていきます。

愛そのものは一方的に生まれるものでも、
関係としての愛は、相互の調整なしには続かない。

私はそう考えています。

愛とは、感情ではなく、認知と選択の積み重ね。
錯覚であることを自覚したうえで、
それでも相手と関わり続けると決めること。

その不確かさを引き受ける覚悟こそが、
一番誠実な愛の形なのかもしれません。

2026年3月3日 9:55

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